会社沿革

伝統の系譜

初代創業者市太郎


石岡尋常小学校卒業式最前列 左から2番目(明治41年3月)

初代創業者の稲葉市太郎が誕生した、明治26年5月5日ごろの時代背景

(1893年)
明治維新により幕藩封建支配が終わり、大正・昭和時代へ続く近代的統一国家の形成・確立期。全般的に見れば、列強が民族国家として独立し、帝国主義の段階に入った大きな転換期であり、国内的には資本主義が成立し、立憲政治が開始され、列強に対しては条約改正によって国際的平等をかち得、諸同盟によって国際的連繋を結び、世界列強と比肩するまでに発展した時代です。ちなみに1893年は日清戦争が起こるまえの年です。
創業者市太郎は茨城県の石岡(現在は筑波学園都市あたり)で幼少から青年期を過ごしました。教育に熱心な家であったようです、甥に会計学では有名な黒澤清先生がいます。

曽祖父は明治41年に制定された学制の一番乗りで当時石岡でははじめての尋常高等小学校を卒業することになりました。しかし高等学校には進みませんでした。曽祖父は古代瓦に異常なほどの興味をもたれたそうで、奈良・京都にはよく出かけたそうです。18歳のとき単身東京に赴き、宮大工の紹介で社寺瓦職人のところへ住み込んで修行したそうです。

1919年稲葉瓦店として瓦専門工事業を創業。社寺の屋根工事を中心に営業を開始しました。

曽祖父がよく言っていたことがあると祖父から聞いたことがあります。

この世の中のものは全て不完全だから、安定と調和を常に目指さなければいけない、それが進歩するということだと。「昨日よりは今日、今日よりは明日、ましな人間になること」すばらしい教えだと今頃になって気がついております。

全てのものが不完全、確かに森羅万象停止しているものは何もない、まして人間に至っては不完全そのものです。ボールが転がって安定を求めるように、どこまでも転がり続ける、その転がり続けるそのことが進歩なのではないかと。目の前の問題を一つ一つ解決していくことこそが進歩していくことだ。

曽祖父は瓦葺師というよりは今で言うアーティストに近かったのではないかと思います。瓦の持つ造形美のとりこだったようです。

二代目 稲葉輝男

私の祖父である稲葉輝男が誕生した、大正10年1月1日ごろの時代背景(1921年)

明治以来の幕藩支配体制が揺らいで、政党勢力が進出しました。

いわゆる大正デモクラシーです。爵位を持たない平民宰相:原敬が内閣を組織した。

しかし期待されたほどの改革もしないままに終わり、大正10年に東京駅で暗殺される。大正12年には首都を壊滅的なまでにした、あの関東大震災が起こりました。

未曾有の大災害に東京は大きな損害を受けるが、後藤新平が辣腕を振るって復興をおこなった。

震災での壊滅を機会に、江戸時代以来の東京の街を大幅に改良し、道路拡張や区画整理などを行い、インフラが整備され大変革を遂げた震災復興であった。

祖父はこのような大正期を生まれ育ち、昭和12年日中戦争開戦の年に高校を卒業し、曽祖父の下で働くことになりました。

18歳という年は多感な年でもありいろいろなものに興味をもったそうです。その中でも特に吉川英治の作品は寸暇を惜しまず読み耽ったそうです。それが後々の人生に大きな影響を与えることになりました。

23歳の時、昭和17年12月に召集令状が届くまでの5年間、昼間は祖父と仕事し、夜は町の青年団のリーダーとして満州建国のことや治安維持法のことについて大いに議論をしたそうです。

昭和18年から2年半、海軍に入り終戦をむかえるまで命を擲って米軍と戦いました。そのとき、かたときもはなさず持っていたのが「歎異抄」だったそうです。吉川英治の親鸞の影響を受けたのでしょう。

辻堂演習の帰途鎌倉大仏で撮影(後列右から4番目)


創業者市太郎との最後の別れ


妻との別れ

終戦後曽祖父(当時55歳)は第一線から退き地域の建築組合設立や古代瓦の研究に力を注がれました。

祖父は敗戦後の荒廃した都市と人心に明るい息吹を吹き込むべく、衣食住の住の部分に都市の片隅である地域から復興を叫び、若干27歳で瓦友会を結成し後に全国地域の瓦組合の礎を築いたそうです。


終戦後まもなくの板橋区建築業組合発足記念写真(昭和22年11月9日)

瓦友会発足式(中央右が二代目)昭和27年


瓦友会社寺仏閣見学

また祖父は瓦職人として曽祖父ゆずりで神社仏閣の瓦葺きに興味をいだき廃寺になりそうな屋根を見ては無償で修理をしたそうです。親鸞の教えである利他行に専念したのでしょうか、お金がなくて雨漏りで困っている人を見ては、率先して修理をしてあげ、あるとき払いの催促なしです。そのような祖父を持った私は幸せであり尊敬しております。
稲葉瓦店の創立40周年記念式典(昭和34年)

昔は屋号が入っている半纏を着て作業しました。紺色の半纏をまとうことが縁起担ぎでもありました(昭和24年)

昭和24年の建舞風景:当時は建舞というと棟木のてっぺんに角樽を乗せました

木の不足している戦後まもない時代に総檜の平屋造を施工

時は2段はしごも機械もなく1階と2階にはしごを分けて架けていました

昭和44年のことでした。祖父の念願であった宮造り屋根の本格的な建造物(菊池邸)の新築を施工しました。この工事は3年に及ぶ長期なものとなりました。

現在、こちらの建造物は埼玉県に移譲されており、年に1度開放されております。

その際には多くの外国人が見学に訪れております。

その施工風景が会社の金庫に保管されておりましたので掲載いたします。

中央が二代目の祖父で左が3代目を継いでいた叔父です

当時としてはいち早く機械はしごを採用して施工に取り組んでいます。荒木田土は右下の一輪車で屋根まで運ばれました

祖父の瓦組立作業です。(切隅瓦の組立細工・・高度な施工技術が要求されます。)

入母屋のみのこ破風刃根丸、化粧棟、隅棟の取り合い写真(現在はこのように葺ける職人が少なくなってきています)

東殿大棟(京丸伏間瓦)大棟十一辺積(箱心立施す)本葺瓦葺・・本葺とは平瓦と重ね葺きしその重ねに須丸を葺くことをいいます。

祖父が感銘を受け師事した佐々木宮大工。

西殿千鳥破風(二ノ平本葺瓦。片切りは袖丸瓦使用)


東殿大棟(京丸伏間瓦)大棟十一辺積(箱心立施す)本葺瓦葺・・本葺とは平瓦と重ね葺きしその重ねに須丸を葺くことをいいます。


東棟より千鳥破風を望む・・角棟(切隅瓦・経ノ巻一文字瓦)使用

 

三代目 稲葉 悟

3代目の父が会社に入り、しばらくして会社は大きく変わりました。転換期を迎えます。

昭和57年、父が31歳のときに今までの瓦専門工事店から建築総合請負業に事業を拡大いたしました。そして二代目の祖父は65歳で現役を退きました。

社名を瓦専門工事業としてのルーツを承け「加和楽建設株式会社」と改め新築工事をメインにスタートを切りました。

3代目がはじめに手がけたことは、仕事の流れをマニュアル化したことです。

マニュアル化することによって仕事のパック化に成功しました。まだ単業種(屋根・外壁・防水等)でのマニュアル化は当時では画期的なことでした。また屋根の管理メンテナンスを通して会員制度を導入したことは、のちのちのハイウィルの礎となっております。

もう一つは工事明細の明瞭化に着目したことです。今でこそ徐々に定額化されてきている工事ですが、当時、工事明細を定額化し明瞭化したことは先見の明があったと私も思います。これは3代目がトヨタ自動車にいた時、自動車修理明細書が一目瞭然にできていることにヒントを得て作成したそうです。

改組後初めての新築工事は、私も良く知っている父の先輩のお宅でした。

父はこの先輩には足を向けて寝ることはできないといつも言っておりました。

それもそうでしょう。父が新築の右も左もわからない時に、「俺の家でしっかり木造住宅のノウハウを覚えておけよ!」と言ってくれたそうです。父はこのような先輩をもてた幸せと利他行を実践している先輩に心から感謝しておりました。その工事を皮切りに親戚・友人・知人と新築工事を本格的に施工していくこととなりました。

さらに、父の代で不動産事業も開始しました。

初めての売買は建築の時と同じあの先輩のお姉さんの家でした。ここまで来るともう感謝では言い表せない、心の絆のようなものを感じました。その後不動産事業も順調に推移しましたが、バブル崩壊から売買が下降線をたどるようになりました。今では賃貸をメインとしたリフォームパックを構築するに至りました。

3代目が常日頃から思っていたことは、お施主様、協力業者と弊社がいつも喜びを分かち合える関係になっている。このことが頭から離れないようになっていたということです。そのためにはメーカーからの仕入れを安価にすることだと思い始めたそうです。

当時父からは、「協力業者夫々の平準な単価を実現していくことによって、質が向上して仲間意識が強固になりより良い施工が出来上がる。お施主様は品質の良いものをより安価に仕入れられ喜びをいただける。」という話をよくされたのを覚えております。

その後、昭和60年頃から官公庁指名業者として公共事業にも参加をするようになりました。最初に手がけた工事は母の実家のそばにある、板橋上板橋保険相談所の全面改修工事でした。この時に学んだ安全管理は当時の弊社にとっては、とても厳しいものでした。幸い、今では当たり前のことになり、より充実した管理をするにいたっております。

三代目 稲葉 悟
昭和26年当時の父が生まれた頃の社屋(作業場)

 

私、稲葉高志が四代目となります。
私の曾祖父は1919年より瓦職人の仕事をしていました。

私は中学になった頃には祖父が社長で現場に出ていましたので、仕事を一緒に手伝うようになりました。産まれたときから、職人さんたちに囲まれて育っていたので、この世界に入ることはごく自然な流れだったように思います。

中学の頃から休みとなれば、仕事を手伝うようになりました。当時は祖父が現役でしたので材木を運んだり、屋根に登っていろいろ教えてもらったり、時にはこっぴどく叱られたりと祖父からは、仕事に対する誇りと面白さを教えてもらったように思います。いつかは祖父のようになりたいなぁと、子供ながらに惹かれていきました。

大学を経て代々家業のハイウィルに入社後、 平日は棟梁の弟子として、週末は大工学校の生徒として、修業を始めました。 このとき棟梁の厳しい躾けのもと建築を一から叩き込まれたわけですが、 手元作業の見習い期間が終わると、自宅の増築を自分で建ててみなさいと指導があり、 親方の指導の元、一人で解体、基礎から土台、柱、梁、桁、母屋組と 手刻み加工をしつつ、完成させました。

わずか4畳程度の増築でしたが、ここに「木造の全てのエッセンス」が詰まっていたということは その時は、施工に必死で気づく由もありませんでした。 その後は建築現場の施工管理に従事し職人に対する躾もこのときに学びました。 木造改築メインで従事し、100棟以上の木造フルリフォームを職人として施工しつつも、 同時に管理者として管理も行いました。

2003年5月には、自分自身の力を試してみたくなり、一旦独立をして旧耐震基準の建物の性能をローコストで向上させたい一心でこれらに特化した会社を設立しました。 木造住宅において耐震性能と断熱性能を現行の新築の最高水準までバリューアップさせる性能向上リノベーションを行い、独立先の会社では、顧客が0からのスタートであったことからもお客様を探す苦労もあり営業も学びました。

独立先の会社では約150棟、営業と施工管理に従事しました。 さまざまな経験をさせていただきました。

2008年には、先代の三代目である父親が心臓の病を患ったことで、独立先での施工体制やスタッフをハイウィルに合流する形で、再びハイウィルへ戻り、この時に四代目代表取締役に就任しました。 その後ハイウィルでは250棟以上の性能向上リノベーションの営業、施工管理に従事させて頂きました。

2015年には、旧耐震住宅の「耐震等級3」への推進、「断熱等級5以上」への推進を目指し、 自身の500棟を超える木造性能向上リノベーション経験の集大成として、日本初の木造性能向上リノベーションオウンドメディア 「増改築com®」をオープンさせていただきました。

2019年には創業100周年として全国工務店向けのセミナー講師を務め、日本の住宅の耐震強化の普及活動を開始。

そして2020年より「増改築com®」に全国から寄せられる相談に応えるべく、 「増改築.com®」の全国展開もスタートしました。 木造改修は、最も難易度の高いリフォームになります。表面を化粧するような改装とは違いますので、大工は大工であっても、内装大工といわれる職人や同じく大工であっても新築現場しか経験のない大工では難しく、木構造を熟知している、いわゆる棟梁でないと難しいと我々は考えております。

そのため、ハイウィルでは木造住宅の「耐震改修」に関して、担当する現場の大工は、自分1人で家を建てられる技術水準かつ木構造を熟知する職人=棟梁の中でも熟練工が担当するルールとなっております。そんな熟練工たちを現場でまとめ上げる管理者は、スペシャリストでなければなりません。そう考えております。私は “住まいづくりは、生き方づくり“をモットーにしています。 物理的なモノとしての家ではなく、家族みんなが生活する場としての住まいをご提供していきたいのです。そのために必要なのは、どんどん出店して多店舗化していくことでも、単純に売上を伸ばしていくことでもありません。お客様の要望をお聞きして住まいづくりがご提案できるスタッフ、魂を込めて住まいに手を加える職人、すなわち人づくりが私の仕事だと考えています。 お客様の住まいづくりを実現するハイウィルになれるよう、これからさらに努力してまいります。

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